カメロンの戦い〜エピローグ〜
後に、メキシコ軍のミラン大佐は ジョヤ(Joya)に留まりフランス軍輸送隊の到着を待っていた。
ミランは、捕虜である外人部隊のベルグ伍長が書いた 第3中隊の最後を記した手紙を、彼の上官であるジャニングロ大佐に送ることを許可する。
その手紙の書き出しはこう始まる :
"1863年5月1日、敵の宿営地にて。 第3中隊は全滅です。 大佐殿、(省略)・・・(部隊が全滅したのは)彼らが勇敢な兵士だったからというだけではないのです・・・(以下省略)"
ベルグが書き綴った、第3中隊が輸送隊をメキシコ軍の目からそらすため見捨てられた、ということを伝えるこの手紙は、ジャニングロに届けられることは無かった。
しかし 数日後、メキシコの新聞社数社により、このカメロンでの戦闘が紙面で伝えられた。
4月30日、ジャニングロ大佐はインディオ達の通報により、今回の戦闘の詳細が"もみ消されていた"ことを知ったのだった。
そして、カメロンに向かったジャニングロ大佐の部隊は、負傷した外人部隊兵レイを発見する。
戦闘のあと、建物から23人の負傷者がメキシコ軍に救助され捕虜となったが、その中で負傷ていたレイは、上手く隠れてメキシコ軍が去るのを待ち、カメロン近郊でジャニングロ大佐の部隊に合流したのだ。
大佐が見たカメロンの地には、掘られた穴に戦死者の死体が山積みにされていたが、はほかに何も見つけることはできなかった・・。
レイがもたらした情報から、ジャニングロ大佐は付近にメキシコ軍の部隊が潜んでいると考え、出直して部隊を大幅に増員した。
そして、その部隊が5月3日に輸送隊と合流し引継ぎ場所まで警護を勤めたのだった。
負傷していた捕虜の中で、マウデとほかの8名が死亡、結局この戦いで、脱出したレイを除く第3中隊総勢64名は、31名が戦闘で死亡, 捕虜となった9名がその後怪我が元で死亡(うち4名は行方不明との記述もある)、残りの20名ほどが、その後メキシコ人捕虜と人質交換された。
その後、ナポレオン三世は、外人部隊旗にカメロンの戦いを記し、さらに、ダンジュー、ビラン、マウデの名は、パリ廃兵院の壁にある"黄金の文字"(lettres d'or)に刻まれることになる。
1892年、メキシコでは、この地に眠る外人部隊兵達のために、戦闘のあった場所に慰霊碑が立てられた。
その有名な碑は、ラテン語で慰霊の文字が刻まれている:
QVOS HIC NON PLVS LX ADVERSI TOTIVS AGMINIS MOLES CONSTRAVIT VITA PRIAM QUAM VIRTVS MILITES DESERVIT GALLICOS DIE XXX MENSI APR. ANNI MDCCCLXIII
(Ils furent ici moins de soixante Opposes a toute une armee Sa masse les ecrasa La vie plutot que le courage Abandonna ces soldats francais Le 30 avril 1963)
"60名たらずの 他の軍隊とはまったく異なる 猛烈なその一団 勇敢を超えるその生きざま 見捨てられたフランス兵達 1963年4月30日"
それ以来、メキシコ軍がこの慰霊碑の前を通るときは、碑に対し捧げ筒(小銃を持っているときの敬礼の一種)をするのが慣わしになったという。
カメロンの戦い 〜終〜