フランス外人部隊 歴史・戦歴〜19世紀第4編〜
1870年7月19日 普仏戦争 フランスとドイツのいがみ合いは、フランスとプロシアの戦争という形で爆発。 この戦争はフランス本土で行われ、それまでフランスの地で戦ったことのない外人部隊には遠方の出来事のはずであった。 また、当時、部隊の半数近くを占めるドイツ人達に、彼らの祖国と戦うことを要求することは出来なかった。 だが、しだいにフランス政府がこのアフリカに駐屯する部隊を呼び寄せなければならない状況に陥ったのだ。 そして首都防衛のために、新たに2個大隊が編成される。 4個大隊のうち2個大隊がうフランス本土に呼び寄せられたが、ドイツ人と音楽隊、そして外人部隊旗はシディ・ベル・アベスに残された。 その間にも、フランスを第二の故郷とする外国人を徴収し、第5大隊が創設された。 10月10日のオルレアンの戦いにおいて、この大隊の勇敢さは群を抜いていた。 しかし、その後、アルジェリアに到着した第5大隊の生き残りたちは、プロシア側が勝利したことを悟っていた。 本土に残った外人部隊兵達は、1871年4月と5月の2ヶ月間、プロイセン軍包囲下のパリで組織された抗戦団体”パリ・コミューン”の鎮圧に参加する。 そして生き残った外人部隊兵は6月11日、アルジェリアへと帰途に着いた。
インドシナ 普仏戦争で屈辱的な敗北を記したフランスは、その威信を取り戻す策として、植民地の拡大を続けていた。 そしてその勢力拡大図は、東南アジアにまで伸びたのだった。 1883年11月18日 海軍とともに、最初の外人部隊兵600名がベトナム北部のトンキンに上陸する。 12月16日 ソンテイ(Son Tay)の砦において、外人部隊が始めてアジアでの戦闘に参加する。 1884年2月 第2外人大隊の到着により補強された部隊は、バクニン(Bac Ninh)の要塞を占拠。 1885年1月26日トゥエンクァン包囲戦 清軍がフランス軍が占拠していたトゥエンクァン(Tuyen Quang)の要塞を包囲。 この攻防戦は3月3日 フランス軍の援軍到着直前、清軍の撤退により幕を閉じるが、1月以上も圧倒的数の清軍を相手に、要塞を守り抜いた外人部隊の功績は、カメロンの戦いと並び証されるほどのものだった。 1885年1月1日 第1外人連隊から、第3と第4の2個大隊がトンキンに到着。 2月4日 第3大隊がランソンを占拠。 第4大隊は6月21日の、フランスと清の間に天津条約が結ばれるまでの間、上陸したフォルモサで清軍と戦い、その後トンキンの部隊に配属される。 条約締結後も、「黒旗軍」などの武装勢力との攻防が続いた。
このフランスによるインドシナ占領は、アルジェリアの時とおなじように、長く終わりのない戦が終焉を迎えたのは、1900年直前だった。